働くということは、仕事をすること
仕事とは誰かの役に立つこと
役に立つということは、困っている人を助けること
悩んでいる人にアドバイスをすること
手助けすること、手伝うこと
仕事をして
誰かの役に立ったとき、お給料をいただくことができる
仕事をしていただくお給料は
誰かの「困った」を助けたときの、対価
「困った」を助けてもらった誰かが、助けてくれた誰かに
その対価としてお金を渡す
お金は人類共通
誰かへの対価としてのお金は
「してもらった人」から「してくれた人」への感謝を具現化したもの
感謝を「もの」で
「人類共通のもの」で
表したものが「お金」
働くということは、誰かの役に立つことで、
働くことで誰かに感謝され、その対価としてお金をいただく
お金の単位は日本では「円」だけど、
たとえば「円」→「感謝」に置き換えてみたら
月20万稼ぐ人は、ひと月に20万感謝もらえるということ
月1000万稼ぐ人は、ひと月に1000万感謝もらえること
そんな風に考えてみると、ひと月に1000万、2000万、1億・・と稼いでいる人たちは、世の中の人々の多大なる「困った」を解決することができる人たち
世界中の大勢の人々の「困った」を助けることができるからこそ、対価をもらえる人たちは
世界中の大勢の人から感謝されているということ
多大な「感謝」を受け取っている人たちと、それほど多くはない「感謝」を受け取る人たちの違いは何だろう
「お金」は経済
経済は回るもの
「金は天下の回りもの」というように
「感謝は天下の回りもの」ともいえる
誰かにもらった「感謝」は回していくもの
多大な「感謝」を受け取っている人たちの中で
その「感謝」を世の中へ還元している人たちは
その「感謝」がめぐり巡って自分の元へ戻ってくる
そうすることでさらに多くの「感謝」を受け取り
さらに多くの「感謝」を回していく
私たちは多かれ少なかれ
各々経済を回している
回る経済の一部になっている
その経済の規模
多大な「感謝」を受け取っている人たちと、それほど多くはない「感謝」を受け取る人たちの違い
それぞれが回す経済の規模の違い
その違いについて各々自分自身と向き合ったとき、「身の程」を知るのかもしれない。
私はいつの頃からか、自分にはそんなに数多くの人たちを手助けできるような力量はないと感じるようになった。
私はせいぜい、私を中心とした「円」の中にいる人たちにしか私の力を及ぼすこととはできない。
私の周りにいる人たち、取り分け私がずっと大切にしたいと思える人たち、いつも笑っていてほしいと願える人たちに、私にできることを精一杯させてもらいたいと思う。
私の力を頼ってきてくれる人もその「縁」の一部。
私が自ら関わりたいと思える人も、この「円」の一部に入れさせてもらって。
私ひとりができることは「高が知れている」
けれど、
私が誰かの「困った」を助けることで
その影響は他の誰かへ
私の円の外にいる誰かへも波紋のように広がっていく
個人のできることは高が知れていても
ひとつ影響を落としたならば
その波紋は「高」を超えていくこともある
私は、自分の「高」を知っている。
自分の高が知れたとき、人は本当の自由になれる。
身の程を知る。
己を知る。
己を知ることで他を知ることができる。
何者にもなれそうに思えていたあの頃よりも、何者にもなれそうにないと知っている今の方が、ずっとずっと楽しく生きている。
私は年を重ねる毎に自由になっていく。
自由になればなるほど、自由の中にある不自由が愛おしくなる。
以前は不自由の中にあった私の自由。
今は自由の中に不自由を抱えて毎日すこぶる楽しく生きている。
「お金は巡る」
「感謝は巡る」
お金を回すという視点から「感謝を回す」と視点をずらすと
ふわっとカラダが軽くなる
働くということは、「感謝を回す」こと
その範囲は「身の程」の円から外へ
果ては世界へと広がっていく
「身の程」という身軽さで
自由に楽しく感謝を回す
世界中のすべての人が自分の自由を謳歌し
より多くの感謝が巡る世界になるといい
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